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家族だからこそ分かり合えない部分ってあります…よね?でもそうなんですよほんと。なのに、家族故に「境界線」を保てなくなる。身近な存在だからこそ「価値観は当然のように同じだ」と決めつけがちだからです。

家族だって違って当然

こんにちは。吉田かおりです。

 

 

私の父でもそうですが、基本的な考え方が全然違います。全くもってずれがあります。

「政治」のことにしてもそうだし、「食」のことにしてもそう、「健康」についてもそう、「医療」、「人間関係」、「死」についても‥‥。

 

 

亡き母とも、健康や医療についての大きな違いがありましたので、母自身の病気に対しての医療との関わり方も、私の考えと大きなギャップがありました。

 

 

さすがに‥‥、母が治療を受けるたびに衰弱していく様子は、そうなるだろうとわかっていた私にはかなり辛かったです。

 

 

でも、家族であっても考えや見る世界に違いがあって当然なんですよね。

 

 

この、「違って当然」ということと、「自分にできること・できないこと」、その時の私はこれらをよく見極めることが必要でした。

 

 

違って当然といういことを心に止め、どっちが正しいとか、間違っているとかではなく、自分の信じ確信しているものを選択することが大事なことじゃないでしょうか。つまり、意見が別れた場合であっても、違いを尊重することが大事ということ。

 

 

でも・・・

家族と意見が違う時、
『分かり合えない寂しさ』を感じるものかと思います。

 

 

これって基本的に人間は「集団に属していたい」っていう社会的欲求を持っていることからです。

 

社会に属している、集団の一員、
そういう欲求ですね。

 

 

「集団に属していたい」は、言い換えれば「一人じゃ寂しい」ってこと。つまり、人は誰もが寂しがり屋なんですよね。

 

それは、孤独を恐れているからとも言えます。

 

孤独は悪いことなのか

だけど、「孤独は寂しい怖い、一人は寂しい悲しい」そう固定しまうことは違うんじゃないかな。

 

考え方の一つとして、自分は孤独になることに対して寂しい気持ちを抱く、そうあっていい、と認めつつもでも「孤独って楽しい」、これもあることを認めることが年齢重ねてくると共にだいじなんじゃないかな。

 

 

 

なんで「孤独が楽しんですか??」っ思う人もいるかと思いますよ。

 

 

 

でも、でもね、老年期までにちゃんとその感性を育てた方がいいです。うん。だって、老いることは孤独になることでもあるんだから。

 

 

孤独を楽しめる感性がなければ老いることも苦しみにしかなりません。死ぬることも苦しみとしか捉えられないです。

 

 

だから人の死を目の前に、その死にゆく人の枕元でワンワン泣いたりするしかない。じゃぁさ、なんで、もっと元気な時に喜び合える関わり方をしてなかったわけ?と思います。

 

 

死にゆく人を目の前に、逝かないで悲しい悲しいと喚くしかできないのは、人の死を尊重できない傲慢な態度だと私は思います。

 

 

当然悲しいはずです。無茶苦茶に・・・。

でも、そんな自分の気持ちだけではなく、死に向かっている人を尊重することを忘れちゃいけないと思うのです。

 

 

 

普段からもう全く関わりが途絶えた親の死が近づいているという連絡があった時、ある人はこう言いました。

 

 

「会いに行く必要性がわからない。今さらどんな顔して会いに行くのか?これまで全く縁の切れたような状態になっていた親に、『死にそうだから』という理由で会いに行くって一体なんなんだ?」

 

 

・・・すごい考えました。

この言葉に。

 

 

確かに、死にそうだから‥‥という理由。
死にそうだから親族が集まるという現象。

 

 

親の死に目に会えたかどうかとか、そういうのって、『死にゆく人の気持ち』じゃない…ですよね?残る側の人間の気持ち。

 

 

どちらかというと、残る側の家族のあり方の見直しだったりとか、そういう要素が強くあるかと思う。とにかく、死にゆく側の気持ちではなく残る側の気持ちだと思うのです。

 

 

死にゆく人がこの物質世界のことごとに意識を奪われていたらなかなか死ぬことができません。辛いばかりです。日本の医療は延命を目的にした医療行為ですから、死を少しでも先延ばしにしようとしますが、チューブまみれになって命を先延ばしにされる側の立場になると、一体なんの意味があるか??

 

 

どうして逝かせてくれないのか?

という声が私の中で起きます。

 

 

「死に目に会えたかどうか」をあまりに重要視するのは私は変だと感じます。孤独を恐れる思考がこのような考え方を固定させてしまうのだと。

 

 

それよりも、生きている間にしっかりと感謝を持って関わること、どんな行動しているか、が大事なんことなんだと強く思います。

 

健康を目的に生きない

あるクライアントさんはご自身で様々なお手当てをし、ご自身の病気に対して自分で取り組むことを怠らず日々を過ごされています。

 

 

自分でできることはしながら、他の人の協力を得る。

そんなスタンスでご自分の病気と関わりを持たれているのです。

これは大変素晴らしい心持ちですね!。

この「自分」がなければ病気はよくならないと私は思います。

 

 

ですが、「病気を克服すること」が自分の人生の目的、人生の最優先になってはいけません。
病気があっても自分の人生の最優先にくるものとは「喜び楽しめること」。結局、日々の幸せとは自分のフィーリングが楽しんでいるか?にかかってます。

 

 

それがなければ様々に取り組む「自分にとって良いこと」が、義務感にしかなりません。「こうしておかなければ病気が悪化するかもしれない‥‥」そんな不安に揺さぶられるとかネガティブな気持ちにもとらわれます。

 

 

「こうしておかなければいけない」

 

こういうスタンスで取り組むことに楽しさはないですよね?

 

 

 

クライアントさんはいつのまにかこっちの立場になっていたのですねー。

 

「過去から今までの自分を振り返ると、健康になって家族や周囲の人たちに大丈夫だよって見せたい‥‥ずっとそう思って過ごし続けていることに対して、一体自分はいつまでこんな生き方をするのだろう、いつになったら健康だよって証明できるのであろう‥‥。」

 

涙ぐみながらこうおしゃいました。

 

 

 

他人を安心させたい、他人に心配や迷惑をかけたくない…そんな思いからも必死になって自分がよいと思っていることに取り組みだした。

 

 

言い換えると、健康であることを早く周囲に証明したいという願望でもあり、これではかなり疲れてしまいます。そもそも必死に取り組むことじゃない。

 

 

 

ある方が私に教えてくれたことがあります。

 

 

『必ず死ぬ』って書くこの言葉 

 

つまり


自分を良くするために必死になっちゃダメよってこと

 

 

 

自分が居心地が良いからそれをする。

自分が楽しめるからそれをする。

 

このスタンスで取り組むことです。

 

 

以前に書いた記事でこんなこと書きました。

参考までに。

さて、「健康のために」と様々なことに取り組み、体を動かすこと、心を前向きにポジティブ思考で生きること、こういった具体的目標をもち健康のために取り組む。

これは言い換えると、健康を目指して生きていること。

 

「健康であることが望み」
(なぜならばそうでなければ幸せではない)
「生きる目的=健康」

な訳ですよ。

 

でも、ほんとうは生きる目的は「健康」じゃないですよね?

 

確かに、健康な体があってこそ様々幅広い体験できますが、病気になったりどこかが不自由になることで健康じゃないから不幸だとは言いません。

 

「健康であることを望み」としてしまうのは本当は自然に反しています。肉体はどうやっても滅びなくなるものです。どんなに頑張ったところで死なない人はいない。

どんなに何を頑張ったところでこの世とは有限ですからどれもこれもみな滅びるのです。

何を作り出してもそれは永遠ではないのです。
何を成し遂げても滅びるのです。

 

生活の中で色んな場面で自分の不足をみて「もっともっと」と駆り立てるのをやめ、「これで十分」と自分自身に思えることも必要なことです。やがて滅びるのです。駆り立てられるように「もっと」と思い、とにかく楽しめなければどれだけ勿体ないことなのか。どうせ滅びるんですよ?

 

それが自然であり当然のことなのです。

健康を目標にしてはいけない理由

 

 

 

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