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支配したい欲求と支配されたい欲求

人は誰でもが支配したい欲求を持っているし、支配されたい欲求も持っています。
支配されたい欲求なんてあるわけないじゃん?と思われる方もあるかと思いますが、意外にも多くの人が、他人に虐げられて生きることにある意味慣れてしまっているのです。

 

私は、「支配されたい欲求もある」ということについて、これまでスルーしていました。除外していたのです。でもそのままではどうしても繋がらない…という領域にきまして、ようやくそれを受け入れ噛み砕くタイミングとなった感じなのです。

 

 

まず、支配されたい欲求(従属者としての振る舞い)は学校教育(洗脳教育)の中でもすっかり出来上がりますし、もっとも濃厚になるのは家族の中での人間関係です。特に血の繋がりのある親子間。

 

このブログサイトの【親子関係】のカテゴリーの中からいくつか抜粋しましたが、これも支配したい欲求と支配されたい欲求が蔓延っているからこそなのです。

 

でも、親であっても先生であっても、「親(学校の先生)の言うことはちゃんと聞きなさい」という主張で子どもに説教するのは、いやこれほんと変だと思います。ほんとマジマジ変。まず、基本的にこれが「普通」としておられることはないかを確認してみてください。そこが普通と思ってたら何も改善しないから。

 

ちゃんと聞いてもらいたいのは誰なのかというと「大人」の方ですよね。

 

だったら聞いてもらえるようにするためには何が必要なのかを考え、そこに努力することが大人として必要なことであり大人としての力はそこに使うべきです。

 

なのに、実際のほとんどはそうじゃない。
ほとんどは、力づく。脅し。威圧。

 

大人っていうだけで偉そうにね。

 

子どもにストレスを感じる訳

 

この文章↑で言いたいことは、結局、大人という権力を使って子どもを支配しようとする様です。

 

親が目の前の子どもにある現実を認める前に、世間を最も重要視した関わり方をする。だから子どもは幼いうちから”自分のありのまま”を抑圧する経験を無意識的にしていく。そういう積み重ねです。

 

で、こういう子どもが大人になることで、当然”自分を持ってない人間”ばかりが世の中に存在する。そうなると、権力の大きな人間の都合の良いように利用されちゃうってことです。

 

言ってみれば世間とはそういう仕組みになってるんですから。本当はなんとも馬鹿げているのです。

市場第一、世間の仕組みは支配者がより支配しやすいように向かうことです。

(中略)

で、実際こどもは「ちゃんとしなさい」と言われながら育つと、ちゃんとするのでしょうか?

 

私は「それはないでしょ」と断言しますね!だって私は親に相当この言葉を言われて育ちましたが、親はいつまでも私に対して不満の様子でしたよ。私も私自身にずっとずっと不満で不満で本当に嫌いでしたね。

 

私は「ちゃんとしなさい」の言葉に反応して「ちゃんと見せる」。まぁ親には上手に見せていたのかな…と振り返ります。見せかけの態度が身についただけ。見せかけだけだから、すごい不安定になっちゃうんです。たとえば自分自身に起きたトラブルに対してどう対応することが必要なのか、どう考えることが必要なのか、何をすべきなのか?そういったことが自分で判断するのが大変苦手な子でした。

 

ちゃんとした子育てこそ苦しみの元

 

『親のいうことは絶対』というルールを頑なに守る。それは親の方も子の方も忠実です。親に虐げられて生きてきた人は、虐げられたその親のことを「絶対者」のように思っています。こういう段階のとき、本人は虐げられていると思っていませんが。

 

絶対者のように思っていることも虐げられていると思っていることも自覚がない場合、知らず知らずのうちに自分を無くし支配されることに慣れていきます。そいういう場合、自分が別の場所で、そっち側の立場に当然のようになります。自分の身の底に染み付いているのですね。支配されることで支配することも知っている。

 

善であることを絶対にするほど支配欲が増す

さて、支配者側の方は「お前のことが可愛いからだ」「親以外誰もこんなことしてくれないぞ」「あなたを愛しているから」‥‥と、愛という言葉を飾りにして、本人の自由意志を奪い、いいなりになるよう仕向ける。

 

 

愛という言葉がただのお飾りなんですよ。
つまり当事者同士に絶対的な信頼関係が成り立ってない。

 

 

どちらか一方がそうだ(信頼関係があると主張)と言ってもどちらか一方がそう感じていない、不満がある、のであれば本物ではない。愛って見返りを求めるものではない。そうしたいからするのですよね。「そうしたら喜んでもらえる」その循環がお互いに生じるのが本質的な愛じゃないかな?

 

 

どんな素晴らしい教えも崇高な教えは愛や許しを扱います。ですがその中身がわからないまま、ただ「善」であることを絶対とすると自己犠牲的になってしまいます。

 

 

たとえば、
パートナーのアルコール中毒やDVといった問題があります。

 

それは相手の問題です。その相手の問題について見ぬふりするようにスルーさせてその犠牲にあうことも、また逆に相手の問題に対して肯定的に捉えて「自分が相手を良くすること」が求められているのだ(=自分の必要性や価値)…と、歪んだ認知を引き起こしもします。

 

これは、尽くしすぎる女性に起きがちな問題です。

 

「相手の問題」に関して「自分」に必要な関わりがあるのであれば、それは「自分のためのもの」です。つまり自分を犠牲にすることではなく、また相手を変えることが目的ではない。

 

もし相手を変えることを目的にするのならば「相手の権利を尊重していない」ことです。『崇高な教えに自分は沿っている』そんなお飾りの善が強いほど、より「相手を変えるべく必要」と「その役割は自分」と、いう援助的思考が『援助という仮面の支配欲』を強める。どれだけ自分が傷つこうとも。支配欲を強めながら支配される欲ももつ。それで、現実喜びがあるのであれば問題はどこにもないんですよ。

 

 

でも、喜びがそこにないのであれば、
その支配欲も支配されたい欲も、愛の元にないということです。

 

 

 

重要なのは信仰心ではなく、自分の霊的な成長、精神面の安定によって自分の人生を創造するということです。

 

そのためにも人が持つ支配したい欲と支配されたい欲を意識上に上げることが役立ちます。

 

近親相姦

私が支配されたい欲求そのものを受け入れることになったきっかけは、ある人からこんなことを聞いたことがきっかけです。

 

「母親が息子を溺愛するあまりに息子の童貞を奪い関係を続ける」・・・私はこれを聞いたとき、本気でドン引きしました。が、これも事実。このことがきっかけとなり私の中で時間をかけながら…人間のもつ欲求の果てにはこのようなことも起きるということへの受け入れからあらゆることが繋がっていきました。

 

 

実はこの息子の方も、「自分が気になる女の子と性的関係を持ちたいけれど、自信がない、恥ずかしい思いを彼女の前でしたくないから」という理由で母親を性の対象にすることを受け入れているのです。結局、この息子も親からの支配を受けてきた結果なのです。【自分】を持てないことから、自分という場で本当の経験(良いも悪いも経験という全て)が受け入れられない。全てを受け入れる器がないのです。

 

親がいうことは「絶対」

改めて、大人が子どもを支配することによって大人は何を得られるかというと、「楽」です。ある一定の枠の中に子どもを納めていくことで、管理しやすくなります。

 

ちょっとでも一定の枠からはみ出ようものなら、すぐさま強制する。皆同じになれ、皆同じになれ‥‥と。それが「自分を放棄しなさい」と言うのと同義語になる。ただみんな同じになるように一定の枠に詰め込む教育は、時に威圧した態度で子どもをビビらせて行動させるだけになります。子どもは「その中身」をどうやって学べるか?そんな疑問をもつこともなく。

 

これって「自分もそうされたから。」なんですよね。理由はただそれだけ。つまりこういう人は自分を知らないのです。自分についてあまりに無知なのです。そう言う人が知っているのは「世間」のことだけです。

 

バランスが大事です。

世間を捨てることはできないし自分を捨てることもできない。

 

だから自分の意見を持ち適切に自己表現できることは大切だけれども、世間に適応するフリも必要なのです。そうでなければこの世の中、生きづらいだけになります。

 

 

「親の言うことは絶対」という思考回路が成り立っている人は、どんなに自分がこき使われていようが、どんなに自分が家族の中の何かを保つために犠牲になっていようが 「だって、親だよ?」「だって、しょうがないじゃん」「そうするしかないじゃん」と言います。

 

 

まだ10代の子どもという立場であるにも関わらずそう言います。親のために自分を犠牲にします。そのままいくつになってもそういう状態が続き、そういう子どもが大人になって結婚して、同じような状況下になることは非常に多いようです。

 

なぜなら苦痛と慣れ親しみすぎてきたからです。慣れ親しんだものはどうしても安心なんだもの。本当は快適なことではないのに無意識的に望んでいる。同じような状況を再現できるように自らが無意識的に選んでしまうわけです。

 

そしていつも同じパターンを繰り返してしまう。

 

過去の慣れ親しんだ苦痛を再現せずにはいられない欲求、これも支配されたい欲求。

 

そうやって知らず知らずのうちにカルマは持ちこされていきます。こういった身近な人間関係の最悪の状況が親子間、家族間の殺人なのです。

 

 

●参考記事

【家族間の殺人】親が子どもを、子どもが親を、家族間でおきた事件まとめ。

 

支配されることのメリット

会社という組織の中でも、ブラック企業の存在がありますけど、そういうのも、どれだけ使い捨てのようにこき使われようが、時間外労働させられようが、このくらいは仕方ない、このくらいはサービスしなきゃ…となんのアクションも起こさずそこにとどまることも同じようなものなのかと思います。

 

 

まず、そういう組織、権力の一部に属してることのメリットがあります。自分でお金を生み出す仕事でなければ経営に関わる様々なことをしなくても良いから一言で言えば楽です。「君がこれだけやってくれるから助かるよ!!」「君は我が社の誇りだ!!」など…上司や偉い人から「認めてもらえる」ことで自分の価値を見出し、本当は社畜にされ自分の首を絞めていることになっていようとも、そこにとどまるとか。

 

誰の中にもありそうなのが、
自分が子どものころ、親のご機嫌取りのために何かをしたことってありませんか?「本当はこっちをしたいんじゃないのにそれを選ぶと親に喜ばれるから」。そんな理由で自分の本当にしたいことを選ばない。

 

あるいは、「本当はこっちをしたいんじゃないし、あっちを選びたいけれどこっちを選んだ方が後からご褒美をもらえる」という理由で自分の本当にしたいことを選ばない。

 

自分がしたいことではないけれどもご褒美がある

 

このご褒美は、好きなおやつをもらえることでもあるし、それによって親が優しくしてくれることでもあるのです。つまりそのような形で自分を認めてもらえる。そのような「歪んだメリット」を見出しています。

 

これが相手に支配されたい欲求ということ。
従属者になることのメリットです。

 

この支配されたい欲求にいる限り、「自分で選び取ること」を放棄しています。言い換えると「責任をもつことを回避」できます。だから支配されている限り楽です。自分で考えて選ばなくていいのは楽なのです。

 

相手からどれだけ暴力を振るわれようが、どれだけ威圧的態度をされようが、そこから離れないでいるのも、それもそういう状況に身を置くことで自分が自分の問題をみないで済むメリットがあるのです。だから、相手が変わることで自分の問題も解決できると思い、相手が変わることのために躍起に努力をします。

 

 

「どうしたらいいのかわからないから私のことを決めてください」というのは支配されたい欲のもっとものあらわれです。自分の責任を持てないということであり自己放棄です。こういう場合は、もう支配されたくて仕方ないという状態なのです。

 

 

だから、その欲求を埋めてもらえる人と関わることになります。

 

 

「他人に虐げられて生きる」ことを自覚するというのは誰でも辛いことです。ですがその中にでもメリットをもてば、それは歪んだ形ではあるけれども「自分が持てる」状態になります。それが、「他人に支配されたい欲求」へと発展します。意識上にそれがなくとも、そのようにして虐げられることのメリットを見出していくことでなんとか自分を保つのです。

 

 

セックスでもこういう関係性が言えます。
以前の記事で書いたのも結局はそういうことなのです。

それって、(男性のセックス後の虚しさや、女性から見ると別人になる感とは)「女性を通じて」しか「自分を肯定できない」『虚しさ』なのかと思うのです。

(中略)

だから「男の中の男、【俺様】」がガッツリ前に出てると、そのセックスは攻撃性や支配性の意味が強まる。それは結果的に射精後の罪悪感に繋がり、相手との本当に必要なセックスの関わりに気づけないままになる。

セックスで虚しくなるなら男性性と女性性を認めていこう

 

性欲の強い男性は、まさに「男」が強いのです。「男性性」が強い。男性性の世界は縦社会であり支配欲がそこにはびこってます。

 

それを悪だと言いたいのではないですよ。

 

ただ、その男性原理の現れとして「女の嫌がることに快感を感じる」という特徴がある。でも、その男性が本当の意味で女性を知っているのなら「女性の嫌がることの意味」までをも理解しているので、結果的に相手(女性)の殻を破ること、つまり解放に繋がるのです。
でも、その女性という部分をわかっていないままのオラオラ男の場合、そうはいかない。

 

そこで、そういうオラオラ男の欲求になんでも応えていると、セックスが単なる攻撃のようなものとなります。奴隷ごっことか首締めとかね。(別にSMを否定しているんじゃなくて、こういうオラオラ男のするSMは単なるおもちゃでしかない)

 

自分の性器を女に「突き刺す」そんな攻撃性が含まれ、男であることの強さや支配的な圧力を女に向ける。殺人を思わすような妙な意識。

 

 

(中略)
そこに疑問を感じて苦痛を感じるのなら
セックスに「虐げられる」必要はありません。
ちゃんと拒否してください。

 

セックスでは幸せになれないワケ

 

もちろん女性でもセックスによる支配欲はあります。ただセックスにおける殺人を匂わすような攻撃性は、本来女性にはないものと思われます。

 

こういうのも、支配したい欲求と支配されたい欲求、また男性性と女性性とを自分の中に自覚できることで、自分のバランスをもち、自分が本当はどうしたいっていうのが出てくると思うのです。

 

 

とにかく、
このような裏意識の存在を受け入れてみてください。

 

自分以外を支配したい、コントロールしたいという欲求。そして、相手から支配されたいという欲求。

 

そして、自分が思う「愛」とは本当に愛なのか。これは相手をコントロールしたいことや、相手から認めてもらいたいなどの見返りを求めているのならその愛はお飾りに過ぎません。