感情を抑圧する自分をやめたい!変わりたいあなたへ
こんにちは。吉田かおりです。
あるお客様とのやりとりの一部です。
私:「自分の中にはいろんな人物がいるよね、・・・・・・・(中略)・・・それで、その人たちと関わっている時のあなたって、自分の中のどの人物がリーダーになってると思う?」
Aさん:「いい人で、誰から見ても落ち度のない‥‥前向きで明るくて素敵な人(だと認めてもらいたい)という欲求を強く持っている人物なのかも‥‥。両手を広げてみんなウエルカムって言ってる感じ。そんな私を今客観視すると、人からの評価をすごく意識してる感じです。‥‥でも、その時そんな状態の自分が、しんどいとは全然感じてないんです。だけど、いつも後になって相手や色んなことに不満を感じていると気づくのです。」
私:「へ〜、その人物は「完璧主義のポジいい子ちゃん」だわねぇ」
誰だっていい人でいたいと思っている
Aさんは、これまでの自分自身について”感情が大きく揺さぶられるような経験はない。人に怒ったりするようなことはなく安定している”とおっしゃいました。人に対して怒りを感じたことはほとんどないと!ほっほ〜〜ん。
このようにおっしゃる方結構多いです。
ですが話を進めていくと、
「実はこれまで嫌な気持ちがあったということにただ気づいてないだけだということがなんとなく気づき始めました。一般的に悪いと認識している怒りなどの感情をただ感じないようにしていたことに気づき始めたんです。」
ああそうなんですね、そうなんですねー
気づきが起き始めたのですね。
変化し始めたのです。
これまで気づいていなかったことに対して、気づきが起き始めた時とは、驚きと不安が入り混じってます。これまで疑問に感じることなんてそこにはなく、スルーしていたことに対して「あれ?」って感じでスルーできなくなってくる。
なので、結構感情が不安定にもなりがちで様々な感情を体験するようにもなります。そう、感受性が増しているのです!
気づいてそれがあると認めたら、それで自己成長し問題が解消される、というものではないですね。気づいたその上で、さらにどんなことを考えどんなことを行動するのか。そういう積み重ねなのですから。
我慢はよくないけれど感情を出すとうまくいかないのでは?
たとえば、親から「早く結婚したら?」「早く子ども産んだら?」などと言われ、カチンときたとします。
そんな時、抑圧するってどういうことなのかというと、自分のカチンときた気持ちを我慢して、相手との関係を崩さないように保つ努力をすること。
じゃあ、自分の感情に気づいた時、
それを表現することが大事なこととして、相手に対してカチンときたそれをそのままストレートに苛立ちや責めの態度でぶちまけたとしたら‥‥どうなるか?
想像してみると、そのほとんどは
売り言葉に買い言葉になり、お互い嫌な気分ではい、おしまい。
あーーこれって嫌ですよねー。
で、そのいやを避けるために、ついつい抑圧を続けてしまう。そして自分の中に小さな抑圧感情がつもり溜まってしまうことで、またまたどんどん苦しくなってしまうのです。こういう人たくさんみてきました。私もそうでした。
でもね、感情を抑えてクールにやり遂げてみせていた時よりも、こっちの方がまだ健全です。でもこのやり方も、心の底から納得できるものではないはずです。
結局そこなんです。
自分がどう自分に納得するのか?
そこがない限り、現状に幸せを実感することなどできないのだから。自分軸で自分の幸せについて追求すべきなんです。その追求をやめることが最も苦しくなることです。
仮に「感情的になりすぎた‥‥」と自分を内省する時
その時『その自分をいつまでも否定的に捉えて現状においての自分の力を落としてしまう』のなら、そのジャッジは【悪】ですよ。
つまりそのジャッジによって『自分がより力をまして自分の望む方向へと向かっていくもの』であるのならあなたにとってそれは【善】です。
感情的になりすぎた『後』なんですよ。
そのあとにどうするのか???
まずその時の自分に対してどう意味を掴むのか。
そして、次にどう行動するのか。
ここがまずければ、せっかく表現した感情が、ただの感情の暴走で「悪」という認識で終わってしまいます。
本当の気持ちを知ることで自分を大切にできる
そもそも、自分がカチンときたのは何故なのか?ここへの理解が浅いことがまずいこと。そこへの理解がないままだと「カチンときた=怒り=悪感情=相手との関係が崩れる」との思いからこういったことは悪いことだからいけない、とものすごく端的に自分の感情を押さえ込むようになるわけです。
カチンときたその感情、あるものはあるんですよ。
自分にとって「今不快だ」という思いが起きたということ。
この事実を認めることです。
ここがまず始まり。
そして、その次です。
「私はなぜ、こう言われたことにこんなにまでカチンときたのか?」という自分への問いかけです。
そう問いかけてみると‥‥
こうするべきだという言い方をずっと幼い時からされてきたことに対して反射的な反応をしている?
それとも、今ある感情を理解してもらていないという寂しい気持ちがあって反応している?
それとも、相手はもっと違った言い方をしてくる人間だと思っていたから、そのギャップに対して反応している?などなど‥‥。
色々あるはずなのですね。
そこがわかると、その上で自分が自分のために、そのことに対して相手にどういう表現をすることができるか、なのです。
ここで例えば、
”親の言いないりにならないといけない”という無意識的思考(信念)がある人は、「親の考え」と「自分の考え」が同じ(イコール)にならないこと、それ自体を否定しています。
つまり、親の考えと自分の考えが常に同一化されてしまった状態。なので、「あなたはそう思うみたいだけど、私はそうじゃないのよ」という主張ができる余地がないのです。意味わかりますかね?自分の意見を持っちゃいけないという感じ。親と意見が違うということに罪の意識を感じるなど。ということは言い換えると自分の考えと相手の考えは一緒じゃないといけない!!と必死に相手をコントロールするんですよ。
これって自分の放棄であり自分を持てない要因です。
ドキッとした方、「そういうこと?そうなのかな‥‥?そうなんだよな‥‥」と、そこを受け止めよう。自分と相手が同じ考えじゃないといけないなんて、そんなこと変ですよ。みんなそれぞれ違いはあります。一色単にはできないよ。違って当然なんですよ。それが自然なこと。
「自分が自分の考え持つこと」それを認めるからこそ、
「相手は相手の考えがある」という違いが認められます。
そいういうものです。
誰もがピーマン好き!ではない
子どもの頃ってピーマンは嫌われものです。ピーマン嫌いって子どもはよく言います。でもうちの子は子どもの頃からピーマン大好きでした。今でもそう。大人になればみんなピーマンが好きになるのかといったらそれは違うよね。嫌いな人もいる。
それと同じで、あなたがあなたらしく感情表現したり自分の思ったことを表現することで、そんなあなたを全員が「好き、同感」とはならないし、全員が「嫌、違う」ともならないです。そういうものですよね。
誰が何を感じたり行動したりしても
それはその人の自由。
だから、誰かから支配されてその誰かにいつも従って、その枠の中で生きていこうとすることはないでしょ。まぁ「その方が幸せ」と感じる人だっているのでしょうからそれは、その人にとっての選択なんです。
主従の関係という枠、搾取されているという関係、それらに”気づいていない”ということは、気づく感性がその時にはないということなので、「何も感じない」わけ。変化する必要も意味も持ってないっていう状態なわけですね。こういう状態にいる人もいます。
私は、そういう枠に縛られたくないです。
人と違っていい、というか、違ってこそ自然。
自分があっていいのです。
支配され主従の関係の元に成り立つ人間関係は本当の幸せではないです。自由がなく狭い狭い中のこと。でも、狭い分ラクです。自分が搾取されているということに全く気づいていない、相手に言われるがままにしか動けない、自分で判断していいことまで相手に聞かなければ判断してはダメだと思い込んでいる‥‥。
自分で考えることをしないから
ある意味ラクなんだといこと。
でもちっとも自由じゃないし自分らしくないし自分という存在感がない。考えることができないというのは最も愚かなんだろうと思います。楽と引き換えに本質的な幸せとかけ離れていくのです。
「おやつが欲しいのならいい子にしていなさい」
「あなたは子どもなんだから親に対してもっと〇〇しなさい」
「そういう態度は内申に響きますよ」
「美味しい料理を作って欲しいのならもっと夫としてちゃんと〇〇して」
「妻としてそんなんじゃ僕浮気しちゃうぞ」
などなど‥‥
いろんな場面でいろんな言葉をあげてみましたが、相手を支配、操作しようと試みる人の言葉です。その意味を持つこれらの言葉、支配しようとする側の人にとって有効なのは、相手がその言葉によって恐怖や不安を感じている場合のみです。そうでなければ無効です。
受け取る側が恐怖や不安を抱くとき、この言葉を発する側は支配者となれます。
そんな人間にあなたはなりたいですか?
実は、どれだけ支配的に操作的に相手に関わりを持ってくる人がいても、それを受け取る側が従属として受け入れなければ成り立たないということ。従属を受け入れる人のみが支配を受け、自由を失うということです。
タバコなんてもともと好きではなかったんですけどね、職場のみんなが吸っているから休憩中に自分だけが吸っていないと浮いてしまうのが嫌で吸い始めたんです。そうしたら今では本数が増えて、やめたい気持ちがあるのに何度そう思ってもやめられなくて‥‥
こういう場合、やめられない理由として「仲間外れにされたくない」「孤独は寂しい」このような痛みを避けるためにその場のなかで従属したこと、それによって自分の安心を得たということが影響してきます。つまり、タバコをやめることは「孤立」を意味するというような潜在的な思いがある。それに抗う必要があるためやめたくてもやめられないという状況が繰り返されます。
病気にしても人間関係の悩みにしても、誰でも悩む時とは自分から発せられている何かに気づいているときです。「何かおかしい、なんかこれでは嫌だ、ダメだ」と感じるのは「もっと良くなりたい」「本当の自分はこうではない」「本当はこうありたい」という自分が本当に望んでいることに気づき始めたサインです。
だから、「嫌」に意識を向けるのではなく、自分の本当の目的を見つけるんです。自分の人生なのですから。自分で動かしていくのです。自分自身を健全に機能させ行動に反映していくのです。
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