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暴力についての捉え方

いま現状において「自分は暴力を振るうことはまずない!」「そんな悪いことは絶対にしてはいけない」と思っている人もどんな人にも、過去1度も暴力をしたことがない、という人はいないのが人間だと思います。

 

あと、ここで言いたい暴力というのは、人を殴る蹴るなどの限定されたものに対してだけではなく、あらゆるところから捉えます。

 

ヨガ的な話になると、ベジタリアンでなければ日々お肉やお魚をいただくことも暴力の視野に入れます。あ、決してベジタリアンを進めてるわけでも肉や魚を食べることは生き物を殺す悪い行為だという言い分も当然ありません。(私自身なんでも食べる)

 

でも現実に、

肉や魚をいただく人間であるあなたが直接その生き物を殺したわけではなくても、自分たちが食べるために誰かが生き物を殺します。

 

スーパーのパックに並んだ状態になるだけで、殺された事実や「生きていた」という、その生き物の果ての死のさらに果ての姿だということを考えないで済んでいるのかと。そうそう、以前のブログでこんな記事↓書きました。

 

でも、食べているその食材とは、生き物の死の先のことです。

 

人の死にしても、動物の死にしても、一般的には滅多にお目にかからない「遠いもの」ではなく、また縁起悪い起きてはならないことではなく、当然そこにあるものです。生と死は表裏一体です。

 

それを、死をまるで「感じないようにする」、「あってはならないようにする」からこそ、食材に関して興味も持てずただの空腹を満たす「食べ物」でしかならなくなります。
嫌な言い方ですが私たちが食べる肉や魚は死体です。生きていたものが死に、それを人間は頂いているのです。死を恐れ受け入れず遠ざけることで、本質的なことへの理解が一向に進まない、私はそう思います。

 

死を受け入れれば今が輝やく

 

 

つまり、殺して食べる、ということが悪なのではなく、またそこをどうこう考えるのではなく、私たち人間は他の生き物の命をいただいていているということへの有り難みを持つことは人として必要な心だと思います。

美味しいものを食べると嬉しい気持ちや幸せな気分を味わえますが、そういう楽しみを経験すると同時に、その食材の命を頂いているといった感謝の気持ちが心の中に存在してあるかないかは、結構重要なのかなということ。

 

そういう理解のためにも、
死を特別なこととして捉え、縁起の悪いもの、考えたくないもの、避けたいもの‥‥と自然に逆らった空気感があることは変。

 

当然生き物はみな死ぬということを正面から受け入れないでいる、そういう空気こそがとても不自然。そこを妙に排除する空気、それは受け入れてないことであり、それなのに「感謝の思いで頂きましょう」というのは言葉だけになるよね、中身が何にもない。

 

全ての言葉がそうですが、自分の表現する言葉のその中身は何か?ってものを持ってないと、何もかもが上っ面になります。

 

態度(空気)の暴力は相当痛い

手や足を使った暴力以外とは、言葉を使った暴力、そして態度(非言語)を使った暴力があります。

 

この三つの暴力でもっとも分かりやすいのは

『手足を使った暴力』『言葉の暴力』。

 

 

「手足を使った暴力」を受けた側の人間は、それが「暴力だ」とはっきりと認識できます。叩かれたり殴られたり、蹴られたりして、実際に体に傷ができることよりも心に負う傷はもっともっと痛いです。心の傷は誰にも見えないからです。自分にも、誰にも。

 

 

だから、傷ついた心の要因となっている「相手からの暴力」が「はっきりと認識できる手や足を使って受けた暴力」あるいは「言葉の暴力」などは、その後、その傷ついた心の回復への道は向かいやすい方なのです。

 

 

でも実際には、どんなものであっても「受けた暴力」とは、時が過ぎても脳裏から離れないなど、それは当然辛いものです。

 

それでも、時を経た自分自身が「あんな酷いことをされた」「あれは相手が間違っている」とその事実を認めやすいものは、自分自身の回復に向かいやすかったりします。(セラピストなどのサポートが必要な場合はあります。私が使うNLPの心理療法では、様々な技法を用いて変容を試みます。)

 

 

もう一方で、
「態度(非言語)の暴力」とは
とても不明確なもの。

 

手を出されることもなく、だから当然肉体的な痛みもない。
酷い言葉を向けられる訳でもない。

 

でも、

態度で受け取る。

空気で受け取る。

雰囲気で受け取る。

 

まるで「お前はいらない」と言われているような感覚が生じて心が不安定になる。

 

どんな場合の暴力であっても、それを受ける側の多くに共通することは、「自分はダメな人間」という感覚に深く深く向かってしまいます。そして特に、非言語の暴力を受けてきた人は、(非言語の暴力があったという)その事実を認めにくい。

 

仮にこの態度(非言語)の暴力をする側の人間が、どれだけ言語を通じて「お前が必要」ということを語っていても、そのときその言葉と態度が一致していなければ、受ける側の人間は相手の「態度(非言語)」からのメッセージを受け取ります。

 

コミュニケーションとはそういうもの。

言葉だけではありません。

言葉も大事だけどそれだけじゃコミュニケーションはできない。

意味を持った言葉を発するにはそれに伴った態度がなければ当然不可能です。

 

 

なんのためにコミュニケーションする?

それは自分のため。

自分が相手にいかに伝える努力ができるのか、そこへの努力を怠らないことが自分が自分を表現することです。

 

適当にやり取りしてて「伝わってるだろう」は身勝手です。
自分だけしかわからないやり方(表現)して相手にわかってもらえるだろう、っていうのは勝手なんです。フェアな位置に立ち相手と関わることが本質的な人と人とのコミュニケーションです。

 

事実を認めず何もかも自分の責任にする人

こういう分かりにくい暴力を受けてきた人は、(自分が相手から不条理な暴力を受けいていた)事実をみとめにくい。

 

そのことが、自分の心の回復を遅らせます。

 

親が子どもに対してどちらかという無関心で放任主義。
こういう場合もそうです。でも育児を放棄しているのではなく、当たり前に食事を与え学校も行かせ、参観日にも来る‥‥。いたって普通の家庭として成り立っている(ように見える)。

 

つまり、

何をされた訳でも、
何をされなかった訳でもない。

 

親が子に対して通常的にすべきことがきちんとなされている。

 

 

そうなると子どもは、
親から何の傷も受けていないと判断します。
ほんとうは親に、

 

もっと構って欲しいと思いを抱いていたでしょう?

 

自分に関心を向けて欲しいと願っていたでしょう?

 

自分を知って欲しいと思っていたでしょう?

 

もっと甘えたいと思っていたでしょう?

 

 

これらは、幼い頃の自分が親に求めていても手に入らなかった、という傷ではないですか?でも、「親は仕事で忙しいから仕方ないんだ」「親は大変そうだから仕方ないんだ」という思いで自分を納得させるの?

 

そのことが、同時に(無意識的に)「自分がダメだから振り向いてくれないんだ」という自責の思いが生じてしまうんだよ?

 

それくらい、
子どもとは親を求め、承認欲求が強いです。

 

人は子どものうちに、親との関わりを通じて「自分は自分でいいんだ」という経験を積むことで「本当の自分」をもち、その上で「自分の人生に喜びや幸せを反映させる」そこへの力が育ちます。

 

 

でも、このような暴力を受けて自分に対する歪んだ思いを無意識的に信じ抱え込んだまま大人になると、常に自分に不安があり外に求めることをやめられません。自分が自分に求めずに。

 

「あの時の親のやっていたことは間違いだった」と思える明確に受けた暴力がない場合、子どもの頃の自分に感じていた「親を求めることで巡っていた様々な気持ち」を受け入れることが非常に難しい場合が多いです。そういう自分を認める前に、「親は親なりにやってくれていた」という大人視点で出来事を捉え、自分への理解に思いを向けられません。こうやって「自分」が「よくわからない」そんな状態が続くのです。

 

大人の視点を外して
子どもの自分をまず認めていくことです。

 

そうしなければいつまでも自分の外に求めます。無意識的に親を求め、それが達成しない現実に身を擦られるように自責の念を増す。こういう構図が大人になっても続くのです。外に求め、自責の念を増す・・・この繰り返しになるから。

 

外に求めて自分を埋めようとしても無駄なんです。自分が自分に求めてそのために何が必要なのかを行動できるよう、流れが変わらなければ自責の思い、自己卑下の元では自分を持つことなどできません。

 

自分が自分へする暴力

言葉(思い)は人それぞれにあって、それをどう使うかは全て自分に任せられています。つまり、そういう責任を自分が持っているのだということを自覚することですよ。その言葉(思い)をどう使っているのかによって、自分や周囲の人間にも暴力を与え続ける、そういう立ち位置にいるってことなんです。

 

たとえば、
日頃から口が悪く、暴力的発言が多く態度も行動も荒々しい状態、人と言い争いになりやすい状態。こういう状況が多い人とは、「充実した喜びある楽しい幸せな人生」とは言い難いです。

 

 

もう一方で、

「暴力反対」「暴力排除」と看板を掲げたような人もいます。こういう場合、過剰に善行為を意識し「〜〜してはいけない」「〜〜〜するべきだ」という思考、そのジャッジでガチガチ。(はーー、苦しいね。)

 

こういう場合は、ただ良い人を演じているだけに過ぎないのだから苦しいです。義務感だけで生きるってなんでしょう??そのうち感情が爆発するよね。そうなった時とは自分に対する暴力をし続けた結果です。

 

外に向けてどんなに良い言葉を使っていても、心の中でそれとは違う言葉を使っている場合があります。ここが本当に一致していれば問題はありませんが、それ以外の場合、自分を常に隠し抑えている。演じるだけの自分にやがて心が分裂するのだから。

 

どんなに表に出てくるところだけ美しい形(言葉)をとったとしても感情が反対方向を向いていてはそれは嘘であり、自分を常に押さえつけ自分に苦しみを与え暴力していることと同じ。自分に対する感情を「無理やり押さえつける」ことは「自分に対する暴力」です。

 

 

権力のある人だから、という理由で言いたいことが言えずにその場を笑って過ごしたことはありませんか?

 

自分を傷つけれられるような言葉を言われたとき、何の一言も言えずただその言葉を黙って悲しくなったことはありませんか?

 

自分がやってしまった失敗を認められず、誤魔化したりやっていないと嘘をついたりなんとかその罪を軽く見せようと正当化することへ努力してしまったことはありませんか?

 

 

たとえば出来事のその場面において、「相手のためにあえてこうした方がいい」そう言った場合もあるものです。いろいろな視点から目の前の出来事を捉えた時に、あえてここではこれらの状況を知った上で「何もしない」という選択を「自らが選ぶ」とか、「あえてそれをすることを選ぶ」というのなら、それは自分の意思の中のことであり自分のためでもあるもの。

 

でも、そう言った選択がその時のベストだと自分で選んだものではなく、「そうするしかない」「そうしなければならない」という状態であるならば、それは意思の外のことであり本当はそれは自分のためにはなりません。

 

自分を大切にできない在り方。自分を持てないことから苦しいですよ。自分を大切にしないから自分以外の他人にそれを要求してしまう。

 

「もっと自分を大切にして!!!」相手に要求し、仮に相手が自分に応えてくれたとして不満にしかなりませんよ。自分自身が自分を認めていない限りその凹みはどうしても埋まらないのですから。

 

知的判断と理性ですべてを上手くコントロールしようとしても、心の底に横たわるものが本当に納得出来るものかどうなのか?です。そして「これが心の底だ」と思っているものが本当に自分の本当なのか?

 

「本当の自分」(魂の意思)と、自分の意思がずれていれば、どうしても満たされません。

 

二極を分裂しない

善がわかるのは悪を認めるから。
消し去ることはできませんよね。

 

 

暴力行為が止められない人も、イライラ感や怒りの感情が日常的に続いている人も、そのパターン化された状態をやめたいと思うなら、本当に自分に向き合って自分が本当に求めていることを知ることです。

何かで紛らわせるという形、それも役立つこともあるし必要な場合もあるでしょうが、その場しのぎの対症療法と同じ。結局それを「続ける」ことは自分にも周囲の人間にも暴力を自分から加えるということです。

 

 

理性で自分を押さえつけたとしても繰り返されるだけです。理性とは限界があり、その枠の中では解決はできません。こういった連鎖(カルマ)を断ち切るには、自分の中の怒りの本音と向き合うことも必要です。

 

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