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証明する必要がないにも関わらず、証明することに努力する人がいます。
全くもってそれに対する議論は必要がないにも関わらずです。

あなたのせいだと言いたいのはなぜか

こんにちは。吉田かおりです。

 

周囲に「証明する必要」がある場合って確かにあります。

でも証明する必要がないのに証明ばかりしてくる、あるいは証明したい気持ちが強まる場合もあります。で、そういう時って、どうしても他人の力を借りなければなりません。

 

 

どういうことかと言いますと、

久しぶりに話をしたMさんと、お子さんが通う学校の担任先生のことについて話題になりました。

 

お子さんは、担任の先生についての不満も抱いている様子。

 

母親であるMさんは、子どもとのコミュニケーションを通して、親として伝えられる部分を子どもに伝え、子どもの本音を聞き出しながらどうしていきたいか、どうしたら良いのか、などを話し合ったようです。

 

 

その結果Mさんは、子どもとのやりとりの中で、どうしても先生にも伝えておきたい部分があると感じ、実際に先生と会い、やりとりを何度かされたようです。

 

その中で先生は、

 

「私は●くんと信頼関係を持てています。お母さんの方に問題があるようです。●くんは私のことを信頼してくれていると言ってくれました」

 

と、こんな調子だというのです。。。

 

批判は問題を解決する力はない

えーとですね、

Mさんは決して先生批判を言いに行ったわけではないのですよ。批判がなんの解決にもならないことをMさんは知っておられます。

 

批判ではなく、自分の子どもの特性をできるだけ理解してもらい、その上で関わってもらいたい。そのために必要だと感じるコミュニケーションを先生へしたまで。

 

Mさんは先生に、『子どもという「個人」をみて、その個人とどう接するのか創意工夫を持って関わってもらいたい』という望みを抱いているわけですが、それを先生に伝えたとして先生自身がそこに向かってくれるかどうかは先生次第だということ。その部分を叶えたい思いなどはMさんはお持ちではありません。

 

世の中にはそれぞれ違う考え方、価値観をもつ人間が集まっているのですから、他人を変えたいという望みが思う通りにならなくても当然なのです。その上で、自分に「できること」「できないこと」、この境界線を持って人と関わりを持つことは大変重要なことです。

 

その一方で、
先生の方は、●くんに起きていることを「問題」としてしか捉えられず、その原因探しをし、その原因の主である犯人は悪い奴だ、という判断基準があるんですね。

 

この出来事に対してただ善悪の判断しかできず、悪はどっちだ、と守勢に入り、それによって責任逃れできるという考えがあるのですよ。

 

あくまで自分を守ることが最優先。
子どものことが最優先ではないということ。

 

だから
「私じゃなくお母さんが問題のようです。」

なんて、そんなアホなことが言えてしまうわけでしょ。あぁ、でも当然のことそれを選んでいる先生が、自分自身で「それではまずい」という認識に至らないのであれば先生にとってはそれがベストなんですよね。

 

他人と関わるとき、導く側と導かれる立場という関係性が時と場合であるものです。選択肢を広げ、共に子どものことを通じて何がすべきことなのか、を話し合うためにMさんは先生と関わった、ということです。

 

ですが、こういう関わりを通じて、先生が犯人探しのような思考は不要なのだと気づかない限り、先生は変わりません。そこは認めるところなのです。その上で次にできることは何かを考えするまでです。

 

証明する必要があるのはなぜか

さて、こういった認識の違いによって、本来は証明する必要なんてこれっぽっちもないことを証明する、ということが起きます。

 

「●くんは私を信頼してくれていると言ってます」と。

 

でもね、

先生が子どもに「私を信頼してくれている?」と聞くって一体なんなんでしょうね。ふざけた質問だなぁ。。。

 

だけどこれによって、先生は
●くんから『証明』を得たわけですよ。

 

なんの役にも立たない証明を。

 

 

もう・・・、自信のなさの現れとしか言いようがない。
当然、信頼していなかろうが、目の前の『先生』に対して「信頼してない」なんて、小学生がなかなか言えることではないですよ。社会的コミュニケーションを子どもの方が知っていますわ。

 

この先生は本当に考えなければいけないことに意識が向かってなく、自分を守ることしかない利己的な態度だった、ということなんですね。

 

 

どんなことでも原因と想定されるものを攻撃することはなんの意味もないです。それをすることは、自分の弱さの現れなだけなのにね。

 

人を批判し現状の不満について「その人のせいだ」と犯人探しをしていくことは本当の解決には何もいたりません。別のトラブルを起こします。

 

たとえば、
生理的欲求や衝動を単に抑圧してしまうことに意味がないのと同じ。頭ではこうすべきだという「良い考え」があり、そうするために今ある感情を抑えて良い考えのもと行いをすることには意味がないのです。

 

正常な性欲を規制しブロックすれば、異常な性欲へ向かうその道を作ってしまうだけ。そいういうものです。

 

これらは、非常に弱い力であり、意味をもたらせません。

 

本当の解決とは

もっと強い力を使うならば、勝ち負けのような状況は作らないし、害がありません。もっと強い力を使うならば、この出来事に関わる者全てが「喜び、幸せ」のレベルは上がります。

 

 

ただ問題扱いをし、責任逃れをして自分を守るだけになるのは、喜べることではありません。批判し相手を変えようとするようなやり方は非常に弱い力でしかなく、結果的にその行いは自分の批判になります。

 

そのような弱い力の元で過ごす以上、自分の周囲に常に敵を作り、自分のすごさを証明することにエネルギーを費やします。人をギャフンと言わせると「満足感」を得ることは可能かもしれません。

 

でもどうやっても喜びや幸せを得ることはできません。だからその先に残るのは虚しさなのです。

 

 

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