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なぜ、ネガティブであってはいけないのでしょうか?

 

成長し続けていくことが大事、目標を持ってポジティブに過ごすことが大事、人はそのように成長することを目指します。

向上心が裏にでる

心と体のセルフアップサポート専門
吉田かおりです。(私のプロフィールはこちら

 

少し前にこんな記事↓を書きました。

「健康になりたい」と願うことがすでにエゴである

 

そこで伝えたかったことは、ポジティブな思いの下には何があるのか?利己的な思いで今をみるのではなく、もっと本質的なことに気づき、その上でポジティブな思いを持つことの大切さについてを書きました。

 

人は、ネガティブにとどまれば、弱い自分にしかなれずウツになることを知っている。ネガティブにとどまれば苦しみが増すことを知っている。いいことが起きないと知っている。

 

そういうことがわかっているから、それを避けるためにポジティブで過ごし成長することを目指していきます。

 

でも本当は、「ネガティブを避けるためにポジティブになる」から気持ちが落ち込みやすくなるのです。

 

ネガティブを避けるために、目標をもち、「もっと、もっと」と現状に満足できなくなる。そうやって「もっと、もっと」と、目標に向かい続けることで悩みが起きるのです。

 

暇と多忙は自分を見失う

相談者のSさん。
大変意識の高い方で、この世の中の現実をしっかりと見られており、人生をいかに楽しむかそれを満喫されているかのように見受けられる素敵な方です。

 

Sさんは志が高いぶん、自分が失敗したことできなかったことに対して、気に留めてしまう傾向があります。

 

つまり、ポジティブさが仇となり年齢を重ねてきている自分を受け入れずに「できなかった」「失敗した」ということに囚われてしまうのです。

 

年齢を重ねてくれば、「昔できていたことができなくなる」という経験は誰にでも起きます。それが歳を重ねるということでありそれがあるから人は死ぬることもできます。不死でいつまでもピンピンということは有り得ないのです。

 

Sさんは、話を伺うと些細なことでもその失敗を気に留め気を揉まれます。

 

「こんな失敗をして、前はこんなんじゃなかったのに、これではダメだなぁって‥‥で、どうしてこうなんだろう‥‥って考えちゃうんですよ」

 

そんな気持ちは今度は自分の「体の不安」に変わっていきます。

 

「体のどこかが悪いからではないだろうか」

 

「何か病気になっているからなのではないか」

 

そうすると何でもかんでも不安になってくるから駆り立てられるように「健康のために」と色んなことに取り組むのです。

 

毎日予定を作って若い頃と同じように、毎日忙しく時間が慌ただしく流れていく。人と交流することばかり、コミュニティを求めてばかり。それも、「健康のため」という大きな目標のために。

 

バ ラ ン ス

ですが本当に大切なのは、

「一人を楽しむ時間」も持つことです。

 

全てはバランスであり、最終的には一人で楽しむことができない人は老年期がひどく寂しいのです。死ぬることも所詮一人です。生まれてくるときもそうです。

 

 

一人を楽しむとは、たとえば植物が好きであれば、その大好きな花や植物を庭やプランタンで楽しむこともそうですし、そこで天気の良い日には外で紅茶やハーブティ、コーヒーでも、自分の美味しいと思う飲み物をゆったり香りとともに楽しむこともそうです。

 

生活の工夫をして何かを自分で創り出すことなのです。

 

私は、部屋の模様替えのことを「考え始めるだけで」私の頭の中の空想が楽しくて楽しくて仕方ありません。結構マニアです。

そして実際に行動に移すと本当に楽しくて仕方ない。

で、仕上がった後もまだまだ楽しめます。

色んな角度からほんの少しであっても変化した状態を楽しむのです。

 

立ち位置を変えて、照明を消したりつけたり、座って眺めたり、立って眺めたり、色んな角度や環境からその場所を見ると部屋の色んな顔が見れて、もうわくわく楽しくて仕方ないのです。

 

コミュニティをもち、人との関わりは大変大事です。それと同じように、自分一人を楽しめることが大事です。

 

健康が目標になると・・・

さて、「健康のために」と様々なことに取り組み、体を動かすこと、心を前向きにポジティブ思考で生きること、こういった具体的目標をもち健康のために取り組む。

 

これは言い換えると、健康を目指して生きていること。

「健康であることが望み」
(なぜならばそうでなければ幸せではない)
「生きる目的=健康」

な訳ですよ。

 

でも、ほんとうは生きる目的は「健康」じゃないですよね?

 

確かに、健康な体があってこそ様々幅広い体験できますが、病気になったりどこかが不自由になることで健康じゃないから不幸だとは言いません。

 

「健康であることを望み」としてしまうのは本当は自然に反しています。肉体はどうやっても滅びなくなるものです。どんなに頑張ったところで死なない人はいない。

 

どんなに何を頑張ったところでこの世とは有限ですからどれもこれもみな滅びるのです。

何を作り出してもそれは永遠ではないのです。
何を成し遂げても滅びるのです。

 

生活の中で色んな場面で自分の不足をみて「もっともっと」と駆り立てるのをやめ、「これで十分」と自分自身に思えることも必要なことです。やがて滅びるのです。駆り立てられるように「もっと」と思い、楽しめなければどれだけ勿体ないことなのか。どうせ滅びるんですよ?

 

それが自然であり当然のことなのです。

 

私はSさんに、

「Sさん例えば10代20代の頃のようなお肌では今は当然ないですよね?でね、ここにシワがあるから嫌だ‥あぁなんでこんなところにシワが‥‥、と悩みそのシワのことで気にやむ時間を持ちますか?」

 

「いや〜そんなことは些細なことですわ、この歳になればシワもあって当然」と笑いながらおっしゃいました。

 

そう!それと同じなんですよ!

 

そういう認め方をされてもいいんじゃないんですか、ということです。

 

変にポジティブにこだわりを持ち、ネガティブを避けようとするほど結果的にネガティブな状態にいることになります。

 

あるものはあるわけで、そこにあんまり「装飾」しようとする必要はほんとはないのです。

 

装飾はいらない

それがとてもよくわかりやすいのが障害を持った人たちです。

 

知的障害があるAちゃん。かなり重い方で言葉が話せません。ですが言葉はわかっています。こちらの話すことは理解しています。意思表現するときは高い声で叫んだり低い変な声を出したり床を叩いたり目で訴えたりです。

 

このような障害の子は、自分を表現する術が言語以外なので、意思の疎通がままならず、ひどい癇癪を起こすことも多いです。あと、特有のこだわりをもち、決まりごとや予定が狂うと暴れたりします。

 

知的障害が重いほど、大人になっても幼児程度の知能しかない人もいます。そいういう人たちと見ると、あなたはどう思いますか。

 

そういう人は生きる目的として何を持つのですか。

 

 

「もっと、もっと」と自分に対して求めません。

 

 

本人もですが、療育したり介護したりする周囲の人たちもそうです。

それは本当にすごくシンプルなことのです。

 

すごくシンプルなことで、それで良しなのです。

 

人は何か成果を得るために生きるのではない。

何かの結果を求めて生きるのではない。

 

 

自分が存在していることで誰か周囲の人に影響を与え、多くのことを気づかせてくれる。障害を持つ人たちはそういう存在であると思います。

 

常にポジティブに前進して何か利益を得ていこうとする必要はないのです。

これは効率性とか、生産性とか、そのような「益」を生み出していかなければ「何も価値がない」、というような捉え方になっていきます。

それだから、相模原障害者施設大量殺傷事件などが起き、あのような残虐なことに対して

「人に危害を加える重度障害者に、人権なんて与えなくていい。犯人はよくやったと思う」などのようなツィートが上がるなどの現象が起きるのです。

 

だから、

ポジティブを求めて今現状が辛い人は、一度立ち止まってみて、効率とか生産性などを捨て去ってみることです。

 

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