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両膝が悪く、うまく正坐をすることもできない方にイネイトヒーリングを受けてもらいました。そのときのカウンセリングにて、お話しさせていただいたことを元に記事に起こしてみました。

 

人は誰もが幸せになりたいと願います。
いつまでも健康でいたいとも願います。
だから、身体に不自由があることを問題視します。

 

問題視し『これさえなければ幸せになれる』と現状に対しする「苦」を認識しますが、でも本当は、問題視していることそのものが、問題を生み出しているのです。

その人は可哀想でも不幸でもない

心と体のセルフアップサポート専門
吉田かおりです。(私のプロフィールはこちら

 

たとえば腰が痛くて歩くことに支障が出て不自由があるという状態、あるいは脳梗塞などで体の不自由がある、あるいは何かの病気になった、子どもに知的障害がある、ダウン症である、などなど‥‥

 

あなたが目の前にそういう人を見たときに、

『大変そう』『可哀想』

などの思いを持つでしょうか?

 

「あんな状態(不自由)で、あの人は可哀想(不幸)‥‥」

 

 

この思いを抱く人の中には、もう口癖のように周りの人の不足を見つけては「可哀想に‥‥」と声を漏らす人もいます。

 

「あの人はあれが起きたばっかりにこんなになって可哀想に…」

 

「あの人は病気だから可哀想に…」

 

「あの人はあんなにすごいのに体が悪いから可哀想に…」

 

キリなく人の不足、不自由を見て憐れむのです。
この方の最も驚いた発言が、「あの人はあんなに不自由になのにすごい頑張り屋なのよ。不自由ながらに作品を作って…ほんとに可哀想に」とおっしゃったのですね。

 

話の流れでは、その人の素晴らしさなどに発展するのかと思いきや、これもまた”可哀想に”という結末に!!!

 

「不自由さえなければもっと楽に作品を作れるはずなのに」

 

「不自由さえなければもっと幸せなのに」

 

こう嘆かれるのです。

 

つまり、この方は人の喜び幸せを見つけることがどうしてもできないのです。

 

素晴らしい作品を作っている事実、
その作品を手にする他人に喜びを与えてもくれている事実には意識が向かないのです。

 

そしてこの方は、自分自身に対しても同じでした。

いつまでも過ぎ去った過去にしがみつくような発言が目立ちます。

 

「あのときああしておけばこのようにはならなかった‥‥」

 

「あのときああしなかったばっかりに‥‥」

 

ご自分の不幸ばかりを語るのです。

 

どれだけ得ているものがあっても、それを喜びや幸せとして受け取ることができないのです。

 

人は、自分の内に持っているものでしか外を見ることができません。人は自分の思うがままに現実を体験します。

つまりその人が持っている『ジャッジ』によって、喜びや幸せをつかむことができなくなりその『ジャッジ』によって苦しみや不幸を体験するのです。

 

ある部屋に赤ん坊がおり、その部屋には、テーブルの上に金貨のふくろがおいてあって、どろぼうがきてそれをぬすむとします。赤ん坊は、それがぬすまれたことを知るでしょうか。

われわれは、自分がうちに持っているものを外に見るのです。赤ん坊は、うちにどろぼうを持っていないから、外にどろぼうを見ません。すべての知識がそうです。

世界の悪とそれのすべての罪のことをおはなしなさるな。自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。自分がいたるところに罪を見なければならないことを、お泣きなさい。

そしてもし世をたすけたいと思うなら、それをとがめてはいけません。それを、それ以上よわくしてはいけません。なぜなら、何が罪なのでしょう、何が不幸で、何がこれらすべてのものなのでしょう。よわさの結果以外の何ものでもありません。

日本ヴィヴェーカーナンダ協会 刊行物
ギヤーナ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカナンダ P45

 

たとえば片足で歩いている人に対して、「不自由で可哀想に‥‥」と憐れみの目を向けます。障害のある子を見て「色々と大変で可哀想に‥‥」と憐れみの目を向けます。

 

そうやって、周囲の人に対して不自由で可哀想、不幸、というジャッジをしているのは‥‥

「見ている本人のもの」です。

 

でも片足のその人は「幸せ」を実感しながら生きているかもしれないです。

 

見た人のジャッジが、相手を「可哀想、不幸なこと」という結果として目の前の現実(人の不幸を実感する自分)を体験します。

 

でも、『不自由なことが悪い・不幸』といったジャッジがなければ、全くもってその相手は不幸でも可哀想な人でもないです。そして片足の人を見た人の出来事は全く違う体験にもなります。

 

たとえば乙武洋匡さん。
彼は「障害は不自由です。だけど不幸ではありません」とおっしゃいます。

 

生まれながらに手足がない(先天性四股切断)乙武さんですが、様々な活動をされています。恋愛関係においてもそんじょそこらの男性よりも豊富に楽しんでいらっしゃるのでは?

 

痛みは悪じゃない

 

体のあちこちに痛みなどの不自由な症状がある(悪いこと)よりも、ないほうがいい(良いこと)。こういう考えのもとで体をよくしたい、と思っても本当に良くはならないのです。

 

言ってみれば、体なんて問題まみれです。

不自由まみれです。

前に曲げようとすればここがちょっと痛む、後ろに曲げようとすればあそこが痛む、誰もが大なり小なりこのような”制限がある”ということを実感しています。

 

あらゆることを問題視(悪扱い)していけば、それを排除したいという思考が生まれます。悪を制して善をなす、という発想ですね。

 

自分の体にある痛みや不調というものを『悪いこと』とするから、嫌い排除したいという思いを抱く。その思いから『良くなる』ことを望むことは、『本質的に良くなること』とはズレがあるのです。一時的に良くなっても、この考え方がある以上またそこへ戻るしかないのです。

 

自分にすでにあることを毛嫌いし排除したいその気持ちが自分の症状そのものを手放さない現実を起こします。

 

問題視し『これさえなければ幸せになれる』と現状に対しする「苦」を認識(体験)します。でも本当は、問題視していることそのものが、問題を手放さない現実を生み出しているのです。

 

「幸せ」をどう捉えているか次第

 

膝が痛いという現実を、嫌なこと、無くしたいこと、悪いこと、と認識することでその現実は強化され痛みに意識がとらわれます。とらわれるから物質である体に固執し、自分の本質を見失います。

 

自分の本質って何か?それはブログにも良く書いていますが「物質である体」ではありません。目で見ることができない魂です。

 

「魂があるって本当?」と不信さを抱くような場合、ふと問いかけて見て欲しいのはあなたの言うその「本当」ってなに?ということなのですよ。

 

本当って、あなたにとっての「本当」なのですから、あなたの幸せや喜びに基づいた解釈でいいということなのですよね。

 

物質だけ、証明できることだけ、を信じて100%私は幸せだとおっしゃるのであれば、それはそれで十分なのですよね。

 

で、その幸せってなに?と問いかけた時、実は「不幸せでいることが幸せ」という解釈をしている場合もあるかもしれないのですよ。

 

変わらない現実を繰り返すことで安心でき、結果的にその状況が幸せ、ということです。で、結局、それを本人が望むのであればそれでいいのですよ。それが本人の自由意志であり、誰もが自分の人生の責任を自分が持っているということです。

 

 

以前私は、「薬は毒」将来寝たきりになりたくなければ熱心に病院へ行かないこと! という記事の中にこんなことを書きました。

 

人は物とも繋がってます。そして様々なことごとの影響を受けもしています。

 

そんな人は、地球との繋がり、さらにその元である宇宙との繋がりがあることで「自分を生きる」ことができます。ここがズレてくることで身体には様々なトラブルが起きてしまいます。トラブルによって「自分を生きる」ことが難しくなる、つまりトラブルの事象に翻弄されるのです。

 

物理的なことだけを視野に入れてあれこれ取り組んでも意味がないのです。

様々なつながりの上、人は見えないことごとの影響を受けて今があるということなのです。

そうなってるのです。

 

 

フィーリングはどこにあるか説明できません。

 

 

そして人間を分析した時に、心の存在が抜きにはできないように、魂という存在も同じ。これが魂です、と誰が説明できますか?

 

見えないものは信じれない?

 

でも

地球が丸いって信じてますでしょう?

 

それあなたが実際に宇宙に行ってその目で見たわけじゃないでしょ?

でも信じてるんですよね?

 

 

つまり、そういう根底の部分が信じられていなければ何を信じられるのか?それは限られたこの目で見える物質のみになるのです。物質に執着することで生きづらさが増すことになるのです。

 

たとえば心で「自分は死んだも同然、自分は生きる価値がない、自分は生きていても何もない」そう信じれば早く死にます。

 

心とか魂とか証明することはできません。

証明できないけれど、あるものはある。

 

そして現実を生み出す。

 

 

だから波動、エネルギー、こう言った概念があるのです。

人が思うこと、どんなフィーリングを生じさせているか、そう言ったことごとが現実を作ります。

 

ただそうだと受け入れることができるかどうかですよ。

 

自分に対する印象

 

体の不調に対して『悪いこと』というジャッジをすることによって、自分の体に対するイメージは悪くなります。同時に自分の体に対して感謝、喜び、満足といったフィーリングを遠ざけます。

 

これが、喜びや楽しみ、幸せを掴めない元です。

 

自分に対する非難は、どうしても自分を弱くさせます。

 

自分を非難し敵視するということは、自分の中に常に分極する存在を持つことで、心身の疲労を招きます。問題をあえてこさえる必要は本当はないのですよー。

 

 

自分に起きていることの意味を見出せないからこそ、敵視し排除したいと願う訳ですね。その上で「良くなりたい」というポジティブな思いがあってもその根底が「意味を持っていない」のです。だから常に無駄な戦いが起きている状態になるのです。

 

敵視し排除しようとする力は、非常に脆いです。

これが反発、という限られた力です。

限りある状態を自らが作り、その小さな制限の中で戦っていくことです。

 

本当に戦うべき場所はそこではないのですよ!

 

「意味をもてない」ということ。
それは人生に対する無意味を経験することであり最終的にそれは人に「絶望」というダメージを与えます。この行く末が自殺です。

 

自分に起きていることの意味を見出すことへ意識を向ける。そうすると、自分に対する敵視をする必要がなくなります。自分のあるがままを認めることが大切なことなのです。

 

”自分を良くしたい”、その思いの発端は「ここが悪い」「ここが問題」「この問題をなんとか無くしたい」ここから始まったかもしれません。

 

でもそこから徐々に…、本当に自分が求めていることは何なのかに気づいていくことへとシフトしていくことが、本当の意味を掴んでいける方法です。それには「もう遅すぎる」などはありません。

 

問題を常に背負い、それを乗り越えなければ幸せは手に入らない、と言うものではないのです。問題視をやめるだけで、「なんだすぐ目の前に幸せはあるではないかっ!」と言うことが見えてきます。

 

 

 

●吉田かおり書籍サイト●
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