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母とは偉大ですね。

自分とはまさにその人から生まれたのですから。

そんな母を亡くすとは、本当に悲しいものでした。

 

ブログを書く気になれず自分の心をどのように保てば良いのかその答えを必死に探していました。

 

そんなとき頂く相談者の方とのやり取りなどからも大変大きな気づきをもらうことができました。本当にありがとうございます。

 

母の死について何度も自分に向き合い、母の死を受け入れること、その理解をようやく見つけました。

 

輸血や抗がん治療によりどんどん身体の異変が起き、信じられない勢いで死へ向かっていった母。医療システムのマッチポンプな治療法に疑問をもつ私はその歯車に乗っかってしまった母をなんとかしたいという気持ちと共に本当にいろんなことを考えた数ヶ月でした。

 

 

そんな母が死に向き合う姿をみて
死という孤独に全力で向き合った母をみて

 

今の私の結論は、

全て母が選択した人生、誰一人文句なんて言えない。

母は立派だった。

 

そう思える自分がいます。

 

母の死に対して私は様々なことへ怒りを向けていました。

その怒りの矛先は結果的に自分に向かうのです‥‥。

 

怒りは自分を守るものと自分を攻撃するものとある。

私の怒りは全然純粋なものじゃなかった。

だからその矢が自分に跳ね返る。

 

 

母の死をどのように受け入れれば良いのかわからない。ここに直結することになりました。これ苦しいですよ。

 

 

様々なところに向かう怒りは結局憎しみや軽蔑を生み、反発して反射的に避けるという状態になります。

 

死を迎えた母を成仏させない思考をしてましたね。

母が選んだ結果に対して可哀想だと母を憐れみ、周囲に恨みを向ける。

 

これは、私が自分以外の人生を操作しようとするからこそ起きる苦しみでした。これが母の死を受け入れられない原因でした。自分が生きづらくなる原因でありました。

 

人生において受け入れられないことごと、人それぞれにあるはずです。

そんなとき、反発してそこから去る、このような状況は自分の不幸を増します。

 

受け入れられないことに対して「NO」と言えること。
これは非常に大事です。

 

でも、履き違えてはならないのが、「NO」をいうことで相手を敵とし攻撃あるいは見下した形で切り離すことと、NOが言える自分を立派だと混合してはならないのです。あくまでどんな場合であっても自分が自分を尊敬できる態度であるのか?と自分自身に問う必要があります。

 

「NO」という相手を否定して変えさせたいという思考が存在する限り、「NO」と思うそのことを受け入れられないのです。

 

 

「それ、私の中で採用できる考え方じゃないな」

こう判断して自分のあり方を認めることは大切です。

”そうは思えない”ということに対して”そう思おう”とする必要は何もないのです。

 

それはなんのためか、

自分の幸せのためです。

 

ここなんですよね。現実として生きている限り悲しいことや納得できないような事など様々な問題が起きます。現実って欠陥まみれです。

その現実に翻弄されている限り、自分の人生を創造することはできません。

 

自分に起こる現実に対して悲しんだり怒ったりするという反応は当たり前に人として起こる現象です。

それを、そのまま翻弄されることを続けるから幸せを掴めなくなります。

 

自分に起きたことを自分のその後にうまく反映させて利用しなきゃ、人生を創造する位置に立てない。

だからいつも結果に反応するだけで翻弄された生き方になる。
これでは現実というものの奴隷ですよ。

私は奴隷にはなりたくないです。

 

 

だから、相手の考え方や在り方もあっていいと受け止めること。

自分の考え方や在り方があっていいと認めるように。

 

 

 

お坊さんのお話の中で、今は亡き永六輔さんの言葉を紹介してくださいました。

 

それが「人は2度死ぬ」ということ。

 

肉体としての生命が消えた時、それが一度目の死。

でもそこから先、誰かがその人のことを思って記憶に残っている。

その人のことを覚えている。

それが有る限りその人は、その誰かの中で生きている。

 

そして、誰もその人のことを記憶しなくなった時、

2度めの死を迎えて人は死ぬ。

 

 

このようなお話でした。

 

死に向き合う人の姿、我が母を見て
その孤独に向き合う強さがありました。

 

最後まで自分の内面に向かい、この世にとどまることよりも向こうの世界に移る方が幸せだと判断したから母は死んだのです。

母が見せてくれた死に対する向き合い方を、今を生きる私は真摯に受け止め生かしていくこと。そのことを気づかせてもらいました。私の中で母が記憶に有る限り、母は生きていると確かに思えます。