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管理しやすい人間こそ自分を持ってない

この社会の教育って、「社会に適応できる人間になるようにすること」が目的にある訳だけど、それを掘り下げて一言でまとめてしまうのならば、「管理しやすい人間にすること」であると言えるのです、よ。

 

これは管理する立場になる人間側の言い分ですね。

 

まぁ、生きていれば誰だって自分の身を置く立場の中で誰かを教育指導する場面があるかと思います。そういう時、独自の強い個性を持っていて自分の意見をはっきり主張されると物事がスーっと行かないから、なんでも「はい」ということを聞いて問題を起こさない人間の方が都合いいと言えますよ?。そういう良い子ちゃんであれば管理する側はとにかく楽。

 

 

子育てで悩む親が、「子どもの自我がひどくでわがままでやんちゃでもう本当にひどいんです。もう本当に大変で‥‥」などと言いますが、当然じゃん。子どもなんだから。

 

 

逆に子どものうちにそういう自分を表現もできず、そんな早い時期からイエスマンになって欲しいのですか?。そういうのを望んでいるならば、結局親は子どもを自分の都合の良いように管理したいだけ。自分がただ楽したいだけっていうことなんだよね。

 

こういう時って‥‥、

「子どもが問題児だ」という視点しか持ててない。
「親としての自分がそういう個人に対応できない問題を持っている」とは微塵の疑いも持てない。

 

本当の問題はそっちなんだぞ?

子どもはまともだ。

 

子どもをまとも(正常)にさせなくなっていくのは、そういう決まりきった対応しかできない親のせいだ。

自分には非がないとしか考えない愚かさ

私は過去、子どもに親の暴力虐待によって数度、救いを求められたことがあります。最終的にその親と話し合いをしたこともありますが、親は自分の非よりも子どもを問題児扱いすることしかできませんでした。

 

 

どれだけ様々な話を伝えても、伝わらない人間には伝わらないのだ、ということをこの時ほど実感したことはありません。だって、親の方は私からの話なんて余計なお節介でしかないのです。「自分」が求めていないのですから。問題は自分ではなく「子ども」にあると決めてしまっているのだから。

 

 

だから、親は子どもが自分の思いの通りにして行くことが絶対なんだというその色眼鏡を外すことはありませんでした。その色眼鏡をかけてでしか目の前を見ることができない。

社会の枠からはみ出すことは本当は普通のこと

これも結局は親である自分が、他者から管理されてきた結果なのです。どっぷり社会に適応しているほど、「自分」も「他人」(←我が子を含む)も枠からはみ出ることに敏感に青筋立てるわけよね。

 

 

はぁーーーーーー。

 

「自分を捨てて社会のために自分の人生を生きること」がそんなにいいのでしょうかぁ。

 

 

組織の中では上にいる人のいうことに従うとか、組織(グループ、クラス)の中では周りのことを考えて行動することが大事とか、とにかく親・先生・上司のいうことは絶対に聞くものだ、と。小手先のことばかりであまりに理不尽ですよ。形しかない。それでもこの社会というものが『そういうものだから』と、それに『納得できるようになる人間』を作っていくのが教育なんです。

 

 

「親」とか「先生」とか「上司」とか、ただそういう「名前」「肩書き」があるからいうことを聞く、というものには本質的な意味はないです。

 

 

本質的な上下関係には愛がある

親、先生、上司、であるその人間が、ちゃんと自分を持っていて行いをしているのか。ここがすごく重要なこと。そうじゃないと本当に必要なものを自分にも他人にも与えることができないからです。そういうのを上っ面といいます。

 

 

なのに、「親」「先生」「上司」そういう『ネーム』だけで、「尊敬しなんでも言うことを聞いて従う必要がある」というのはとても不自然。従う必要、その意味とは、「本来、そうすることで自分も喜びを感じられ幸せがそこにあるから」です。相手との双方のそのような良い循環が起きるのが本来の素晴らしい上下関係(支配関係)です。

 

 

世の中には色んな人間がいるわけで、自分と違いがあっていいんだ(当然なんだ)ということを認めようとしないのは不自然なのです。「みんな、こうあるべきだ」という社会ルールが濃すぎるのは不自然なのです。

 

でも学校では理不尽なことであっても「納得できない」って思っちゃいけないんです。NOをいった時点で問題児扱いされます。
異端の目で見られます。

 

「コイツは一定の枠に納まれないのだ」そう判断される=発達障害。
はい、認定〜。

 

「みんな」に重きを起く前にまず「自分」が必要

我が子が学校の用事で学校外に行くことになった時のこと。
休日での行事で、しかも全員参加行事ではなく一部の参加者生徒のみの行事。

 

どうやら先生は「〇〇駅に集合してそこから行くように」との指示を出したようです。(その指示はかなり中途半端で、息子はたまたま友達から聞いたというもの)

 

 

それを聞いたうちの子は、「なんであの場所に行くのにわざわざ電車に乗っていかなきゃならんのだ?!めんどくさい‼︎」と自転車で一人でちゃっちゃと行ってしまいました。

 

 

確かに…、私でもそう思う。
なんでそんな遠回りと時間をかけなきゃならん?と…。
(その駅まで行くのにわざわざ遠道なのよ)

 

 

で、実際にうちの息子のようなことすると、
ルールを守れない勝手な奴と「異端児扱い」されてかウンタラカンタラと言われるんですよ。でもこの時はバレなかったのでね(笑)セーフ。

 

 

こんな感じでわざわざ「みんな」で行動するために、「みんな」を優先的に考えるために、いちいと面倒なことが起きる。誰かがひどく負担しなきゃならないとかが起きる。そういうのがたくさん起きてくる。それらに対して「納得できない」、あるいは「もっとこうしたらどうか」って言動を起こしたらダメなんですよ。通用しない。

 

みんなこうあるべきだ、というものに染まらないで良いのです。染まるのではなく、そういうフリをしていく『選択』を自分で持つことです。

 

 

でも、知らずうちにいつのまにか染まりきった人は、自分が染まったことに気づけない。

 

だから、社会に出て性格の意地悪な先輩のストレス発散のはけ口にされていても、何も言えない。ただ笑ってそんなゲスな先輩のご機嫌をとって口合わせするしかできない。

 

自分の尊厳を踏みにじられるような言葉を言われても、気づけない。

 

周りに合わせて周囲に適応することばかりになって、自分のしたいことも自分の気持ちも何もなくなっていく。

 

なんでそんなに辛い状況でいつも笑ってんだよ?

 

おかしいだろ???

 

だから人生が「つまらない」んでしょ?

 

 

社会の在り方に息苦しさを感じる人はある意味正常です。
ただひたすら自分を我慢して社会に合わせていると感じている人は、個人の正常な反応だと私は思うのです。

 

だから、そういう人はちゃんと自分の世界で生きて欲しいです。
自分を見失いつまらない人生を歩んで、「こんなはずじゃなかったのに」と人生が終わっていく前に。そう、終わりが来るんだよ?早く気づいて自分を取り戻すための行動をした者勝ちです。歳はとるのです。今できることは今以上にはないのだから。

 

自分の世界をもった上で、社会に適応したフリをして生きて行けば良いのです。

 

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